※10/15弥勒米の流通・説明に関する部分を修正しました
わたしの推し米「弥勒米」
ブラジルに移住して、もう8年になります。
私の推し米は「弥勒米」という主にブラジルで流通している日本米です。
ブラジルは日本と同じく米が主食ですが、米の種類や炊き方が違います。ガーリックと塩で味付けされたブラジルのお米も美味しいけれど、やはり日本人である私にとって、日本のふっくらした米の味を感じることができるご飯こそ「お米」という感じがしています。
さて、私が住むブラジル南部の田舎町。日本人はおろか日系人もいません。日本食材も遠い町まで買出しにいかない限り手に入りません。
そんな私が住む町で、唯一手に入る日本の米がこの「弥勒米」です。
ブラジルのあきたこまちとも呼ばれるこの弥勒米。とてもおいしいです。
また、私にとってこの弥勒米は特別な思い入れのあるものです。
手に入りやすいからという事ではありません。
このお米を食べるとき、約110年ほど前に遠く海をわたり、日本からブラジルへ渡った日本人の強さを感じるからです。
日本からブラジルへ渡った日本人たち
ブラジルは日本から最も遠い国の一つですが、(日本を除き)世界最大の日系社会がある国です。ブラジル全土で180万人をこえる日系人がいると言われています。
1908年神戸港を出航した「笠戸丸」をかわきりに、労働者不足にあえいでいたブラジルへ、日本人が次々と渡っていきました。
日本政府はブラジルでの「高給」をうたって移民を募集していましたから、その殆どは数年間ブラジルで働き、お金を貯めて帰国するつもりの人ばかりだったといいます。
ところが実際のブラジルでの状況といえば、その真逆だっだそうです。
元々、労働者不足は、奴隷制度の撤廃をしたことによる奴隷不足によりおきたものでした。その代わりとしてつれてこられた日本人移民は、立場上は「奴隷」ではなかったものの、実生活は「奴隷」と同じ状況になったのは必然ともいえます。ブラジルにとって必要なのは奴隷でしたからね。
それでも、移住した日本人たちは粘り強く働き、知恵を使い、土地を得て農地を開拓し、「農業の神様」として、この遠く離れた土地で信頼を勝ち得ていきます。そして、ブラジルで強固な日系社会を築いていくのです。
ほかほかのご飯が活力をくれる
そんな、日本からの移民たちは、色々な日本米をここブラジルの地で作りました。
ほかほかの温かくおいしい弥勒米を食べている間、時々こう思うのです。
「ブラジルへ渡った日本人たちは、どんな気持ちで日本のお米を作ってたのかな?どんな気持ちで食べてたのかな?」と。
私がブラジルに移住した当初、日系人すらいない土地での、初めての出産・育児。今でこそ上達したポルトガル語ですが、その当時は日常会話すら危うく、友人といえる人を作ることは出来ませんでした。主人はできる限りの事をしてくれていましたが、新しくはじめたビジネスを軌道にのせるのに必死で、頼るわけにはいかず、ただただ孤独と不安がつのっていたのを覚えています。
そんな状況でしたから、日本のものを見るたびに、懐かしくなって辛くなって、お米を食べても日本を思い出し泣いてしまう体たらく。そんなとき、ふと思ったのが上の疑問です。
言葉もわからない、頼る人もいない、日本へいつ戻れるかもわからない、そんな状況でブラジルへ渡った日本人たちは、どんな気持ちでいたのだろう。きっと本当に本当に辛かっただろうな、苦しかっただろうな、と。
そんな中で食べる日本のお米は、ほろ苦くて、でも美味しかったと思うのです。
私が弥勒米を食べて、心にじわーっと染みるものがあったように、きっとホカホカのご飯に、母国を思い出したり、勇気づけられた事があったと思うのです。明日への活力をもらった事があったと思うのです。
辛くても苦しくても、必死で働き、ここブラジルで社会の信頼を得て、強固な日系社会の礎を作った日本人たちがいたこと。弥勒米はそんな日本人たちの強さを、私に思い出させてくれます。
今日も元気にいただきます!
今年もブラジルで新米が出回る時期になりました。
既にブラジル生活は8年になり、ここでの生活にもすっかり慣れ、今や半分ブラジル人化しています(笑)あれだけ嫌だったブラジルでの暮らしが、今はとても気に入ってます。
それでも、苦しいことや辛いことがあった日、弥勒米を食べるたび思うのです。
このお米は、日本人の強さがつまってる!私にだってできないことはない!と。
人生は時々苦しいけど、何があっても強くいきていけるように、しっかり食べて、しっかり仕事をして、しっかり育児をして。ブラジルの片隅で、私はそうやって生きています。
明日への活力に、今日も私は弥勒米を炊いて、ほかほかご飯をもりもり食べるのです。